③【大学入ってからウインド本気出すと誓うまで】〜学連のみんなへ〜

大学入学後、初めて本当の同期ができます。

レディースでがっつり経験者の私は、新しく入ってくるレディースの同期と仲良くなれるか不安でした。

蓋を開けてみたら、私のことを本気で応援してくれて、私の気持ちを全て理解してくれ、勝利を喜んでくれる最高の同期(奥田ゆか!)でした。

同期のメンズたち(当時は慶應も逗会だったので合わせて8人)とももちろん仲良くなりました。私の家で年越しパーティーしたりしたね。本当に楽しかった。

 

 

学連一年目のインカレ。

先輩が怖くて、全然スタート出られないし、私が高校一年生の時の、大学一年生の同期の先輩(大学四年生)が最後のインカレということもあって、ピリピリしていて、当時関西で知ってる先輩もほとんどいなくてお昼ご飯1人で食べたりしていました泣

ホームシックでオクマの宿のベッドでしくしく泣いた日もありました。

その頃の寂しくて悲しかった記憶が強くて、なんとか同期を1人でも多く連れて行こうと、二年生以降頑張ります。

 

しかし大学一年生の時、大きな挫折を知ります。

関東では夏合宿に西湖カップというものがあります。例年西湖チャンプコールでかなり盛り上がります。

当時、西湖チャンプに輝いたのは、ねねさんでした。私は初めて大学一年生から初めて二年目の人にウインド歴4年で準優勝で負けました。

めちゃめちゃ悔しくて大泣きして滝のゲロ(のちのかれんの滝)を吐くまで飲みました。

そしてねねさんのことも嫉妬に包まれて嫌いになってしまいます。(もちろん今は大好きです。)

ちなみに私は理系で徹夜の課題に追われて三年生くらいまで平日全然ウインドできていませんでした。

 

大学二年生、Kくんと付き合って幸せ満開でした。死ぬほど可愛がってくれました。

最初はそこまで好きじゃなかったけど、付き合っていくうちにどんどん好きになりました。

この人なら自分の全てをあげてもいいと思った。Kくんのことを考えれば何でも頑張れた。

ウインドも同期とできて最高に楽しかったです。

この時期イタリアの世界選手権にも出場し、レディース7位にもなりました。

そしてインカレでは、2年生で金髪ロングで6位入賞することができました。

初日は暫定15位くらいで最終レースで入賞圏内に滑り込みました。

 

大学三年生。

両親が2人とも職を失い、貯金もあると思っていたのになぜか急にお金がなくなり(貯金がないというのは実は嘘で、父親の教育方針で自立させるためだったらしいです。これを母に読んでもらって初めて教えてもらいました。)、学費が払えなくなると言われ、足りると思っていた奨学金も足りなくなってしまいました。

当時の私は、父親と喧嘩した時に、誰の金でウインドしてると思ってんだ!!って怒鳴られるのが嫌で、ウインドのお金(世界選手権行きすぎたわ笑)も全部私が出していたので、毎日ご飯に困るほど貧乏でした。家計簿つけて節約してたよ。。(男気じゃんけん参加できなくて空気読めない奴って先輩や同期に睨まれるのが結構辛かったよ。)この時期は、自分より練習できる時間とお金がある人たちへの嫉妬心を力にレース頑張ってました笑

 

 

そして学校の授業も忙しい中貴重な時間でできるウインドの練習と居酒屋のバイト(家から30秒くらいのとこで働いていて、深夜2時まで働くこともあったよ。)がハードすぎて、ヘルニアを患います。(腰が痛くなっちゃったー!)

 

1ヶ月くらい寝たきりで動けなくて、ヘルニアは一度発症すると再発の可能性も高く、進行すると下半身不随になる可能性もあり、絶望してしまいました。

当時大好きだったKくんに別れ話も持ちかけられて、本当に辛かった。

今まで言ってきたわがままとか、自分の悪いところを見つめ直して、毎日泣きながら全部反省して直そうとしました。

そしてこのとき父親は沖縄の石垣島で職を見つけて、家族全員石垣島に引っ越しちゃいます。寂しかったなあ。けどおばあちゃんがつきっきりで看病してくれました。まさかおばあちゃんに腰痛で看病されると思わなかった(笑)将来介護するからね。

 

そして、両親と相談した結果、ヘルニアを悪化させては一生を棒に振ると、飛行機の予約までしていた世界選手権もキャンセルし(ラトビア行きたかったな)、一年間ウインド生活を休みます。ウインド休みながらこのとき大学の単位ほとんどとっちゃった!

家からみんながウインドしてるの見えるから、良い天気で良いコンディションの日は、一緒に練習したいなって羨ましかったな。

 

 

 

このまま引退したらいいのではないか、二年生でインカレ入賞できたから十分じゃないかと、あれほど喧嘩の時にウインドやめるなと言っていた父親が、ウインドの引退を勧めて来て本当にびっくりしました。

 

おばあちゃんの必死の看病もあって、大学三年生のインカレ1ヶ月前に復帰することができました。インカレに向けて、筋力を戻すために初めて大学のジムで筋トレして、ほぼ毎日練習しました。(練習できた風が微風ばっかだったんだよねこのとき。)

 

結果は、初日微風で暫定3位で一本ピンを走るものの、漕ぎすぎて腰を痛めて二日目以降全く漕げず、吹きも感覚を忘れていて10位でした。(ピン走ったとき、フィニッシュラインでねねさんが追いかけて来て、死ぬほど漕いであまりにきつくてフィニッシュするまで泣いてました笑。動画を見返してよく見るとフィニッシュした後顔を上げてうあーーーってなってるのはそういうことです。)

 

 

私は、何度辞めたいと思っても続けて来たウインドを、しっかりやりきって引退したかったんです。(本当は三年生で納得いく結果を出して、すっぱり引退するつもりでした。)

 

けど、もちろん全然納得いく結果じゃなくて、あと一年、最後頑張ろうと決意します。

腰はまだまだ痛くて、痛み止め飲んでストレッチで騙しながら続けることになるなと思ったので、本気で最後まで練習できるとはこのとき全く思っていませんでした。

 

 

 

この頃ですKくんに振られたのは。

半年前からどんどん冷たくなって人が変わっていったようでした。

インカレ三日後にKくんに振られて、2ヶ月くらいほとんどご飯食べられなくなって眠れなくなりました。自分の全てを否定された気分だった。大好きだったKくんはもうどこを探してもこの世にはいないと思った。心の中の自分は手足をもがれて心臓にナイフを突き刺されたような気分でした。少し回復したと思ってもふとした拍子に、心の傷口から血がどくどく溢れ出すような感じでした。普段より6kgくらい痩せちゃって、精神的にものすごくきつかった。ぶっっちぎりで人生で一番辛かった。けど、辛すぎてこの時のことあまり覚えていません。(思い出さないようにしていたら、付き合っていたときの幸せな記憶もあんまり思い出せなくなりました。)このことを誰かに知られることで、同情されたりして今までの日常が崩れると思ったら、しばらく学連の誰にも言えなかった。Kくんが引退するまで、Kくんがいる正規練とかめっちゃ無理して行ったけど、あの時の自分には正規練仮病で休んでよかったよって言いたい笑。Kくんのことが大好きなままでは辛いままだと思い、なんとかして嫌いになろうと努力して嫌いになってしまいます。恋愛って残酷。

 

辛いことがあっても、これに比べれば何にも苦じゃなかった。

このときもおばあちゃんが必死に面倒見てくれました。

おばあちゃんは「かれんちゃんのことずっと愛してるし、離れないよ」って涙ながらに言ってくれました。立ち直りが意味わかんないくらい早かったのはおばあちゃんのおかげです、ありがとう。

 

 

 

そして大好きな先輩たちと挑んだ大学三年生の団体戦

団体戦の前に自分の艇庫は地面から少し高さがあるので、艇庫から落ちて滑って転んで捻挫してしまいます。二週間くらい団体戦の直前まで練習できず、筋力も落ちすぎてて、初日どん吹きでまさかのけんせいくんに一周差をつけられそのままF。レディースの二年生とかがフィニッシュしていたのにも関わらずですよ。つらたにえん。(父親はこういう時、なんでFだったの、とか電話してくるんですけど、悔しいの知っているのでなんだかんだポジティブに慰めてくれます。)

 

 

からの最終日はポースタがイケてるブローを発見し、NTのゆりさんと2人でポースタし、上ピン。このときのことは今でもずっと言われてて、全国にポースターターとして名を馳せます笑

しばらく腰の痛みと戦いながら、痛み止めを飲んでだましだまし練習していて、大学三年終わりのジャパンカップ

インカレのレース中上り殺してきて、同期飲みで上り殺してごめんねって謝ってきた(上り殺される私が悪いのにと感激しました。)松本祐樹くん(3年生でインカレメンズ5位入賞)が、来るということでテンション上がってました。

さっちゃん(大阪大学宗方聡子)とも初めてそこで話しました。

 

関西同期とめっちゃ仲良くなって(毎年ジャパンカップでは関西勢を全員私の家に泊めています。)、みんなが帰っちゃうの本当に寂しかった。

そしたらさっちゃんが、ジャパンカップの次の日東京で延泊していて、寂しかった私は速攻で会いに行きました。そこでさっちゃんと意気投合し、さっちゃんに世界選手権に一緒に行こうよってゴリッゴリに誘われて、ノリで行くことにしました。(私はさっちゃんの押しに弱いです。)

全然練習できてなくて下手になってるし、過去に何回も行ってるからいいかなと思っていたんだけどね。

ま、そこで私は松本くんとも行きたかったのでゴリゴリに誘いました。

それであのメンツということです。

 

Nセレでは憧れのNTになりたい気持ちももちろんあったけど、NTは辛そうだし大変そうだということも今までのNTを見ていてわかっていたので、とりあえずNセレ出て、神様に決めてもらおうというような軽い気持ちででたら、死ぬほどズボリました。ものすごい吹いてて数人しかフィニッシュ出来そうな風に見えなかったから6.8張ったら、風落ちてビリの方走って恥ずかしかった笑(世界選手権に行くなら遠征補助金出るNTになりたかったな、なんて笑)Nセレの他のレースでは、風落ちたからって7.8の6.5にしたら吹きすぎて乗れなくなって、みんなフィニッシュする中流されて、運営にレスキューされそうになってん。帰れます!!!って叫んだら運営に笑われた笑

めっちゃビリの方走ってて全然乗れなさそうに見えたよね笑。ゴメンなさい、そこは7ババの意地です。(中部選手権でも運営のレスキュー断って、同じことしました。何が何でもレスキューはされたくありませんでした。実際帰れると思ったし。)

 

 

 

大学四年。

 

ポルトガルで行われた世界選手権では、NTが速い速い。全く勝てる気しなかった。

けど、私には伸びしろがたくさんあるなとも思いました。微風ではopen womenでピンも走れたし、とっても自分の可能性を感じるレースとなりました。あと、普段テクノの7.8で乗ってるのにテクノプラスの8.5でどん吹き乗って、ノボプレレースたくさんして、吹きにめちゃめちゃ自信つきました。手プレもこの時習得しました。

同じ部屋に泊まった松本くんとさっちゃんと辻上くん(同志社大学三年)とめっちゃ仲良くなって、松本くんとは一緒にインカレ優勝しようと約束します。ポルトガル楽しかったね。

 

 

帰って練習していたら、吹いてうねりがあるコンディションで、下りでマストの上に爆沈してあばらを打って動けなくなったこともありました。痛すぎた。

ボードの上で痛いってうずくまりながら動けなくて、けど周りに誰もいなくて辛かった。そのあと2ヶ月くらい痛くて、多分骨にヒビが入っていたんだけど、病院行っても治療のしようがないから、病院に行かず、痛いの我慢して練習してました。帰ってからおばああちゃああん、あばら折れたああって言ったら、あら!動けてるんだから全然大丈夫よ!(大学三年の団体前の直前に捻挫して、動けなくなっておばあちゃんが救急車を呼ぼうとしたことがありました。)って全然心配してくれなかったね笑ポジティブなおばあちゃん。

 

地元の大会では、サラ(青山学院大学四年生)が私の知らぬ間にいつの間にかえげつない速くなってて、優勝かっさらわれて最初はまぐれだと思っていたのに、だんだんサラが本気で速い人なんだって認識していったよ。

けど、サラって優勝したらすっごくあからさまに喜ぶじゃん。全身で喜びを訴えてくるじゃん。そりゃあ優勝は嬉しいよ。頑張ってきて優勝できたんだから、喜ぶのはとてもわかる。

けど、横の私は悔しさと屈辱と、なんなら怒りまで込み上げてきたよね。(私めっちゃ負けず嫌いなんだ笑)それで、悔しかったら勝てばいいんだってさっちゃんに言われて思った。

 

 

腰の調子は、自分的には結構いいなって思ってて、練習しててもそこまで痛くならないどころかどんどん良くなってて、これは本気で練習できるなって思った。

 

 

単位もとったから学校に週一でしか行かなくて良くて、バイトも親が再就職できたからとりあえずはやらなくて良くて、彼氏と別れたから筋肉どれだけつけてムキムキになっても誰にも見せることはないから良くて、海の前に住んでるから道具代や遠征費以外はほとんど時間もお金もかからないから、本気で日本一練習できる環境は整ったな、とも思った。

 

 

Kくんと付き合ってる時、ちょっとでも筋肉むきむきになったらKくんに勝手に謝ってて(彼氏の前では女の子らしくいたかったんだ)、筋肉なしでも軽量級セイラーとして走れるような練習をしてたんだ。

ねねさんにかれんちゃんは、筋肉と体力つければ絶対もっと速くなれるよって言われたことがあったから、筋肉つけて本気で練習したら、どれだけ速くなれるかなってわくわくした。

 

この一年を全て捧げて、ウインド人生で一番の本気を出そうと誓ったんだ。

 

 

続く。