①【ウインドを再会するまで】〜学連のみんなへ〜

〜学連のみんなへ〜

 

 

初めてウインドサーフィンに乗ったのは8歳くらいの頃かな。

あんまり覚えてないけど、本栖湖でつるんつるんの湖面で三角艇に乗ってすすすーって進んだのがすごく楽しかったのを覚えています。

けど、午後はどん吹くし富士山の地下水が入ってくるありえないくらい冷たい本栖湖。家でぬくぬくゲームするのが好きだった私は、ゲームしたいと泣きながら訴える中、父親に本栖湖に引きずり出されました。

ドケtではなく節約家の父親は素材が水着のウエットスーツ(ぷっかりんっていうライジャケ一体型のやつ。トラウマ。せめてちゃんとしたウエットスーツ着せてあげよう?)を着せて、午後でも沖で練習させられてました。

その甲斐あって、逗子市長杯でその頃認識してなかったけど、だいやさんとか一緒に出てた大会で、女子優勝したことがありました。(材木座で練習したことも結構あったし、このときの逗子市長杯は材木座で行われました。高校で材木座で練習した時は本当に懐かしかった。)当時は父親が逗子市長で、父親から表彰状を受け取りました。大人たちが、「小さい子がウインドしてて可愛い」とチヤホヤしてくれはするものの、一緒に練習する友達がいなくて寂しくて、勝ってもつまらなかったです。(関東のヒメノカップの名前の由来になってる、ヒメノちゃんと2人で出場してたんだ。ヒメノちゃんのお父さんが悔しくてそのあと猛練習させてヒメノちゃんも辞めてしまいます。)

まあ結局、どん吹きでボードで膝打って膝から血を流してるのに、沖までボートで連れてかれて、早くセイル上げろ!!と怒鳴り散らすわ教えるのヘッタクソだわで、ウインド大っ嫌いになって、小3のアメリカ留学を機に、二度とウインドするもんかと誓いました。(今思うと虐待だよ。)

小さい頃からずっと練習していればな、ってちょっと思うことはあるけど、絶対無理だったなとも思ってます。

 

小学校では、ゲームばかりしてお絵描きや編み物が大好きだったインドアな私はそのまま中学生になります。

中学では類は友を呼ぶのでしょうか、気がついたらオタクに囲まれてて、その影響でアニメとゲームと漫画にどハマりし引きこもります。絵を描くのが得意だった私は本気で漫画家を目指していました。(私の祖父が漫画家で、当時バクマンが流行ってたんですよ)

しかし、全く運動をしてこなかったため、中学では学年1運動ができず、私がいるチームは大体負けました。

中学のシャトルランは死ぬほど頑張って16回で、小6の運動会では、(私は六年間黄色組でした)黄色組の6連覇がかかっていて、運動神経が悪いなりに力になろうと、長距離走は必ず点数が稼げるから、挑戦したもののビリに一周差をつけられて、全校生徒の前で校庭を一周したこともありました。(ゴール後悲しくて号泣しました。)が、黄色組は6連覇を達成しました。

 

 

中学でオタクの親友がいじめられ始め、かばっていたら運動神経悪いのも相まって、一緒にいじめられました。(いじめって言っても軽いものだったけど)

 

そして中学終わりの春休み、陽キャに異常な憧れを抱き始めます。

母親と生徒会長になればいじめられないんじゃないかとか作戦会議してました。(高校で生徒会副会長と生徒会長を務めます。)

絶対生まれ変わってやるとも思いました。

 

 

 

続く。